ためらいがちな真珠あるいは虹の橋のタラ

① トイレのジャングル

私は、生まれてから小学5年生までの日々を高知県中村市という小さな町で過ごした。
現在の四万十市である。
日本最後の清流と言われて久しい「四万十川」の河口にある。

今からおよそ500年ほど前、
関白一条教房公が応仁の乱から逃れてこの地にたどりつき、京都に模して造ったと言われ、
「土佐の小京都」と呼ばれる、人口4万人に満たない小さな城下町である。

当時、父はM乳業の下請け会社でアイスクリーム部門を担当する工場の責任者として働いていて、
私たち家族の住まいもその工場の中にあった。
工場の倉庫の一角にある社宅は二間きりの部屋で一日中陽が差さず、
昭和三〇年代の地方都市では珍しくない貧しい暮らし向きだった。
いつかは庭のある一軒家で暮らしたいと幼いながらも私は夢見ていた。

小学四年生の秋、何やら両親の間で「大人の事情」があったらしく、
私たち家族は急に町の中心地にあった工場から、
お城近くの丸の内という地区に引っ越しをすることになった。

新たに住む家は中村城跡の為松公園西側にあるこじんまりとした住宅地で、
道路から一番奥まったどん突きにあった。
塀のないだだ広い庭には、桜やグミ・ビワの木などが植えられていて、
家庭菜園ができる程度の畑もあった。
陽も少し短くなりつつあった引っ越しのその日、
畑の脇には真っ赤な彼岸花が揺れていたのを鮮やかに思い出す。

新しい家はかなり古く、台所は土間になっていて、
その横にある板張りの茶の間には、
薬箪笥のような小さな引き出しがたくさんついた家具が置かれていた。
部屋は五つもあり、周り廊下にもなっている縁側が明るい日差しをたっぷり受け入れていて、
暗い工場の中で育った私たち姉妹は心が躍った。

ところが、衝撃的な事実があきらかになったのは、
引っ越しの荷物をあらかた運び込み、誰かがトイレに立ったその時である。

家の北側にある扉を開けると、窓のない廊下の先に当時はまだ水洗ではなく、
いわゆる「ぽっとん式」のトイレがあった。
初めてそのトイレへと続く扉を開けたのが、家族の誰だったのか記憶にはないが、
悲鳴のような声に弾かれるように全員が扉の向こうを覗き、そして感嘆の声を上げた。

なんと、便器の真ん中から大きな大きな1本の竹がニョッキリ生え、
繁った緑色の笹が何重にもとぐろを巻いてトイレ全体と廊下を占領していたのである。
トイレがジャングルに飲み込まれているような、それはそれは恐ろしい光景で、
小心者だった私は、こんな恐ろしいトイレに毎日入らなければならないわが身を考えると
背筋が凍りつき、泣きそうになった。

もちろんそのままではトイレが使えないので、
両親がなんとか使用に支障のない長さに切ってくれたが、
小心かつ想像力のたくましかった私は、トイレに行くたびに、
タケノコがヌーッと伸びてきそうで怖くてたまらなかった。

トイレの竹が原因ではないと思うが、私たち家族はその家に1年ほどで別れを告げ、
再び工場の近くに引っ越すことになった。
両親の間にあった「大人の事情」が解決したのかもしれない。

それから私たち家族は大阪に移り住み、結婚して現在に至るまで
何度か引っ越しを繰り返したが、
新居のトイレのドアを初めて開けるときには
緊張感とともに不思議なワクワク感を覚えた。
竹がトグロを巻いているのはこりごりだが、もしかしたら
見たこともないような美しい世界が広がっているかもしれない・・・
と想像するからである。
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by anuenue_tara | 2011-09-04 21:24 | えっせい
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